昭和44年03月22日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 もう何回頂いても何回頂いても尽きぬ味わいというか、新味というかねそういう味わいを感じさせてもらう御理解ですね。「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。」その目に見えぬおかげがおかげと少しずつ分かって来る。それが段々分かってくる。それが皆んなおかげであると分かって来る。この辺の新味とね、信心の味わいというのはこの辺だと私は思うですね。
 そこでここで思われる事は、四神様の御教えの中に「氏子心配に打ち込むなと。信心に打ち込め」と仰しゃる言葉がございますよね。「氏子心配に打ち込むな」と。「信心に打ち込め」と、この辺から私はこの御理解の味わいが分かって来るのはこの辺からだと思うのです。氏子心配に打ち込むなとこういうておられる。所が心配があるから参りよると。心配があるけん信心しよると。心配で堪らんから神様にお縋りしよるとと、いう間はここん所は分からない。いくら話してもいくら話しても分からないですね。
 これはね例えばあのう長年信心をしよっても、唯そこだけを目的に参って来よる人には、どうしても分からないですね。いわゆるそのお願いに参って来るだけの信心には、何十年信心しよってもですねその分からないですねここは。ですからそのお願い参りだけではいかんから、信心参りが出来る様に話しましても、いわゆる聞く耳を持たないですね。ただお願いをすればおかげを頂いた時にはもうニコニコとして、「先生広大なおかげを頂いて」というてお礼参りをして来る。
 そしておかげを頂くとまた信心が薄くなっていく。またお願いがあるごとなって来るとまた熱心に参って来る。だからそうしておる内に信心に何か触れる切っ掛けはないものかと思うて、まぁあれこれいうならばなんていうかね、探りを入れるようなお話をしてみるけれども、その信心の方にはピンとこないと言う人がやっぱある。「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い。」そそ大きい方のおかげが分かるから、有り難いとういことになるのです。
 目に見えるおかげというのは、お願いをしてお願いが成就していくと。例えば最近の昨日一昨日から昨日にかけてはもう、高校の高校入学のお願いをしてあった、そのお礼参拝がいわば続いております。本当に不思議で不思議で堪らん。本人自身も出来ると思うていなかった。それがおかげを頂いて出来た。そうなって来るとやはりそのおかげを感じますからその、お礼参りをして来る訳ですけれどもね。昨日一昨日だったでしょうか、私は毎朝感心たしますけれども、佐田さんところをあの小さい坊やですね恵介君です。
 もうここにあの寒修行が始まってからですから、何ヵ月毎朝お参りをして来る。して大きな声であの天津祝詞大祓い、そして拝詞天地書附と、もうそれを暗唱しておるようである。はぁいつまでん天津祝詞ひとつ覚えられんという人が有りますもんね。まだ一年生ですよ小学校の。あれをちゃんと始めの間はあのう、祝詞本を見てからいいよりましたけれども、最近はもうあの長い大祓いでも、もうみんな暗唱しております。一生懸命大きな声で挙げておる。
 挙げてしまったらあんな風にしてから、もうころっと寝てしまうのですよね。そして私眠っておるときに神様がですね、眠っておる間に色々教えられるんです。これには感心するです。御理解は成程子供には分からないかもしれないですけれども、子供に分かるようにいうならば漫画のようにして教えられるですね。もうちょっとねあのう驚いてしまいます。しかもその朝の御理解をいつも頂いておる。恐らく今はあぁして眠っておりますが、さっさと神様から頂きよる事だろうと思いますよね。
 もう本当にもうあのう子供とか大人とか言う事はないですよ神様は。いわゆる頭が良いとか悪いとか年をとったと、若いものという区別はないて。もうその人なりに分からせて下さるです。昨日でしたか一昨日の朝の御祈念の時に皆御理解なんかをですね、あのお夢の中に頂いておるのをここで自分でお届けをするのですよ。先生今日はね親先生が御結界からたった一言仰った。あの「プロレス」と仰った。先生がたった一言御結界から「プロレス」と仰った。いわゆる力だけではいかん。わざだけでもいかん。
 力と技が伴うていかなければならんと言う事をですね、頂いておられる訳ですよね。そこで私がその思わせてもらうのですけれども、いわゆるそのまぁプロとアマチュアですねいわゆる、素人と玄人と言う訳ですか。ですからお互いがね信心の素人が何十年も続いたのでは駄目です。もうそこに信心が例えば5年もも続くなら、もうプロ入りをしなければいけません。もうあっちは信心の玄人だと言われる位にならなければいけません。ところが何十年信心しておっても素人です。
 同んなじ様な事を思うておるということがです、今日私が申しますようにその、氏子心配に打ち込むなと、信心に打ち込めと仰しゃるけれども、信心にゃ打ち込まず心配に打ち込んでおるというならばです、心配だから参っておるというのであったらです、これは何十年たったっても素人ですよ。これでは今日ここんところに53節に頂けておる、目に見えるおかげは分かるから有り難いと思うけれども、目に見えないおかげは全然分からない。いや目に見えるおかげですら分からない気付かない。
 迂闊にしておる。いやおかげを受けてもやっぱ腑が良かった位にしか思わない人ですらある位です。私目に見えるおかげが頂き、この分かって来ると。そこに信心の味わいというのがある新味というのは。思うてみればおかげあれもおかげこれもおかげと、それが分かるようになると言う事。あれもおかげこれもおかげと分かるようになる、そこに例えば信心をするものは肉眼をおいて心眼を開けよと仰しゃるのですけれどもね、その心眼を開くと言う事がです、これは素人の信心ではとても心眼を開く事はできません。
 いわゆる心配にどんばかり打ち込んでおるごたる事では決して心眼は開けません。四神様その事を一言で仰っておられる訳ですね。「氏子心配に打ち込むな」と。「信心に打ち込め」と。そこから例えば信心は撤するという事になって来るのではないでしょうかね、その撤した信心からでしか、そのうもうそういうものは開けて来ない。夕べの御祈念久富繁雄さんが2日ぶりでしたかね、3日ぶりかにお参りになった。ご親戚にご祝儀があって、ご祝儀の手伝いに行っておられた。
 それもそこのあいのというところでしたから、まぁいうならば近くですね。いわゆる追い分あたりから入ったところの部落なのです。そしてそのお夢の中に頂いておられる事がですね、いうならばあすこのあいのからというたらですね、必ず土居からしか参ってこられんち言う事、土居というのが繁雄さんの部落ですよね。土居からしか参ってこられんちいうことはない、例え久留米におっても福岡におっても、もう福岡におりますけんでやれやれ安心と言う事ではいかん。
 例えば福岡の秋永先生達夫妻のごたりゃ、福岡から毎朝やっぱこっちへお参りをしてくるんですけん、福岡に行っておるけんご無礼してよかち言う事はなかということ。例えば福岡にいっとったちゃ徹したものがあるならお参りが出来る。もうその時は許されておる。参らんでよかろう。もうやれやれと思いよる。もうあんたがおってから留守番に留守番というが、まぁ家の中におってくれるだけでもいいて。若いもんばかりだからおってくれんのちいうてその奥さんの里の方なんです。
 そう言われるもんじゃけんもうそりゃよかとこじゃなかばってん、ただ朝のお参りだけはちょいとして来るもんのとか、夜のお参りだけはちょいとして来るけんで、というたっちゃよかところをその、それに腰掛けて参って来ない。その事を神様は指摘してですね、そういうことでは徹したと言う事にはならん、という意味の事を頂いておられます。私はこの辺のところが私はおかげを頂いておったと思うですね。もうこれはどこにおってもね、これは九州中商売でもありましたけれども。
 どういう田舎に行っても、どういう町に行ってももう、前の晩宿屋に泊まった時に金光様の教会がどこにあるか聞いておく。地図をちゃんと習うておく。まぁだ電車がなかなら歩いてでも行く事にちゃんと決めておる。もう出張中じゃけんて神様はお参りせんでいいと言う事はなか、その近所の教会にお参りをする。それが私の生き方でした。例えばこの西郷の内田さんというたとこの、ここに参ってみえられますね。あちらに終戦直後取り上げの加勢なんかに参りますと。
 もうあちらで朝お水を頂いたら、もうそれは慣れん仕事ですから体がくたくたです。泊まりがけでお手伝いに行っておりますから。けれどもやっぱり自転車で自分方の家の前を通りぬけてから、朝参りだけはさせてもらいよった。そこにきですねやっぱり信心には徹したものがなからんといけません。これはお参りだけの事ではございませんけれどもね、久富さんが頂いておられるのも、そういうことを指摘してお知らせを頂いておられます。そういう信心。
 そこから私はひとつの力がついて来るというかね、また技も体得して行く事が出来る。二、三日前に八女郡のある教会の、今度上野さん達と一緒に学院に入ります。それが小倉へこの頃あの面接それから試験なんかがございましたから、行って皆さんと一緒に帰ってきて、道中で合楽の話しを聞いてびっくりした。はぁ「金光様の信心ち、教会ちゃそげなことをするところですか」ち。一遍お引き寄せを頂きたいというて2,3日前にお参りをさせて頂いた。
 まぁそのお礼の葉書がきておりますから少し、ちょっと読んで見ましょうかね。「親先生先日は2日間も長居させて頂きまして誠にありがとうございました。親先生を始め奥様お嬢様、光昭ちゃん修行生の方々のお言葉や、実習を拝見させて頂きまして、私の今までに考えつかなかった事や、また見た事がない行ない等に、感銘を受け何かが私の心の中に進入してきました。その何かがまだつかめません)」とね。その何かというのが信心なんです。今までそういうことを知らなかった。
 そしてあのその大変気の毒そうにここへ来て言われるのです。今晩一晩ここに泊めて頂いて明日の御祈念を頂いてもよろしいでしょうか、それはかまいませんよと。けれどもあなたどこまでも他所の教会のご信者さんであり、修行生と言う事になっておりますから、あのそこんところを良く考えておかれればいいでしょう。一晩泊まって朝の御祈念、もうその晩は感動でですね一睡もしなかったっち。三時頃から起きて上野さんを起こしてからお広前に出て来て3時半に私ここに出て来る。
 そこからこう拝ませて頂いたとこう書いております。そしてその次にですね「また信者の皆様の熱意、実意には只只びっくりするばかりでした」と書いております。朝の三時に出てからもうぼちぼち三時過ぎてお参りがあるでしょう。さぁ四時に御祈念がある時はそん時にはばらばらお参りがあってるでしょう。さぁ5時の御祈念というたらもうここにお広前にこのようにして、一杯おられるでしょう。もうその信者様の熱意と実意には只只びっくりするばかりでしたと書いてある。
 皆さん当たり前のようにして信心の稽古をしておるけれども、他所から見るとしかも金光様の先生を志望しておると言う人が見てびっくりしておる。何かがそこにこういうことがなされるもとが何かがある。何かがある何かがあるけれどもそれが自分にはまだ分からない。それが自分の心の中に進入して来ると書いてある。けれども進入して来るその何かがわからない。さぁその当たりが信心なんだ。今日いう私が信心なんです。いわゆる信心に打ち込んでおるからその実意もあれば熱意もある訳です。
 そうでしょうが皆さん。熱意によって力を受けれるなら実意によって技を受けれる訳でしょう。これは他所のご信者さんがこのような風に合楽の信心が目にとまっておられる訳ですよね。先日山口から参って来た先生等は神様が助かっておられるお広前と目に映った。そのようにしてです私共がここに、おかげを頂いておるのでございますから折角ね、信心をさせて頂くなら心配に打ち込まずに、ひとつ信心に打ち込まなければいけません。そこからいわば心眼が開けて来る。今まで見えなかったものがみえて来る。
 それはねあのいろいろ皆さんがご心眼にこげんとば頂いた、あげんとば頂いたと言うでしょう。あれとは違うです。あれは心眼じゃないです。まぁいうなら霊眼とでも申しましょうか。そういう事もやはり有り難いのですけれども、ここで言う心眼というのはね、例えば病気なら病気をするでしょう。ここに難儀がございますでしょう様々な。その難儀の本当な言が分るのです。心を開くと。これは難儀ではないと分かるのです。御理解ではお話では神愛だといわれても神愛だとは思われん。
 けれども心の眼を開くとそれが、神愛と分かりますから痛うございますと、苦しいございますと。けれども有り難いという事になるのですよ。それが神愛と分かるから。そう分かるようになると本当の信者じゃと仰る。だから結局ここで説かれる事は本当の信心を目指すという事だけしかもう説いていない。もうそれに終始しておると私は思います。だから時々は非常識であり、不合理な事を申しますけれども、けれどもどこまでもその不合理は只の不合理ではない。只の非常識ではない。
 いわゆる超不合理であり、超常識であると私は言う訳です。人間の小さい知恵やら力やらで判断するものとは違うと。「信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。」その目に見えぬおかげという事がです、難儀の向こうに隠れておる。困ったという事柄の向こうにおかげが見えておるのだけれども、心の眼を開かないから分からん。ただ目に見えておるところだけしか分からん。それにはです私は信心例えば信心というてもですね、なるほどおかげやら心配に打ち込んでおるのではない。
 信心に打ち込んでおると言うても、その打ち込み方というものがです、徹したものでなからなければいけない。徹したものでなからなければいけません。そ来ん所が私はいわゆる信心のプロと言う事になるのではないでしょうか。信心の玄人ということになるのじゃないだろうか。お互いが初めから玄人がおる筈がありませんから、初めはならおかげから打ち込んで参りましてもですね、信心が分かりだしたらですね、その心配はここにあずけてお取次ぎを願わなければいけませんよ。
 心配がある心配が全ての事、今日のような御理解を頂いたらお願いも出来ませんけれどもというて、お願いをなさる方がございますよ。御理解を頂いたけんでというて、お願いしようと思う事もお願い出来んという、そういう意味でいいよるとじゃないです。だからその心配な事、いわばお願いしなければならない事は、逐一お願いをさせて頂くということは、ここにお預けするという事なんですよ。「氏子は心配をここにズラーと並べてから拝む」ち。これも四神様のお言葉の中にございますよ。
 ここんところにはもうこううず高く心配が積み上げてある。それで一生懸命拝んで、そして置いていきゃよかろうばってん、帰りがけにはみんなそれをひっかろうてもって帰ってしまうというてね。心配をお取り次ぎを頂いたらですね、ここにお預けしてそしてその事を通して、さあ信心になるぞというて帰らなければいけません。「後であれもおかげであった、これもおかげであったという事が分かるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」ですからそこんところの信者を目指さなければいけない。
 それは心配に打ち込むのでなく、信心に打ち込んでいくなら必ず本当の信者になれる。そこんところを今日私は信心の玄人と申しました。玄人と申しますのは金光様の先生という意味じゃない。金光様の先生でも素人と同じ人が沢山私はあろうと思う。例えば先日ここに葉書を頂いておるその方なんかは、金光様の先生を志望しながらでもです、まぁだ天津祝詞一巻あげきらんと自分でいわれる。教えを何節か書けと言われたけれどもその教えも、全然しっとらんと言われる。いっぺん朝参りをした事があります。
 そこが教会が5時半の御祈念だそうです。初めてそのお参りしたところが、表が詰まっていて先生が休んでおられた。それけんそれっきり朝参りをしようと言う気がなくなったと、こういわれるわけなんです。それでいて金光様の先生になろうち言うてから、よっぽど金光様の先生がよう見えたんでしょうねきっと。そして初めて上野さんの話しを聞かせてもろうてね、合楽に御神縁を頂いた。そして無理お願いして一晩泊まらせて頂いて、ここでのいわばまる一日というものを、見たり聞いたりさせて頂いて。
 只々びっくりするばかりであったとこういうておられる。そしてその丸一日の中に、何かが今までなかった私の心の中に、何かが進入して来たとこういわれる。その何かが合楽の信心だとこう思うのです。その信心を私は頂いていくという事がです、必ず金光様の先生にならんでもね、お互いがやはり信心の玄人にならなければいけません。それであれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる信心。それには先ずいわゆるここに書いてありますように。
 信者様の熱意と実意には只びっくりするばかりでしたと書いてある。熱意熱意という事を今日私は徹するという風に申しました。ぱぁ一遍だけ燃えあがるような熱し方ではつまらん。徹すると言う事。実意ということが私は行ないと思う。信心を頂いていきよる者のその姿というものが実意そのまま。実意丁寧そこに私は技の体得が出来ると思う。そこにそれこそプロレスじゃないけれども、力も強いなら同時に技も競うていくところからね、そのプロとしての信心というかね。
 いわゆるこの53節を何回か頂いたか分からないですよね皆さん。けれども何回頂いても何回頂いても、ここんところはもう汲めども尽きぬ味わいをいつも感じます。それは信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが分かって来るからではないでしょうか。目に見えないおかげというのはもう数限りないのですから、そこんところが分かっていくから尽きぬ味わいが出て来るのではないでしょうか。そこんところを分からせて頂いて、お互いね本当の信者を目指さなければ行けんと思うですよね。
   どうぞ。